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【鉄道ブログ】27,000Kmの旅日記002/最北の鉄道・宗谷本線編(2)


週末は、法務以外のお話も書いて行ききます。前回までは こちら から ………

 行政書士の仕事は様々である。地方に行くことも度々あり、昨年(平成30年)12月、私は北海道・稚内にいた。

 冬の稚内は寒かった。雪がすごかった……と、思ったのだが、訪れた時の気温は”プラス”表示。地元の方に伺ってみると、12月としては”暖かく””雪が少ない”気候だったそうだ。しかし都会育ちの私には寒い。稚内についてまずやったことと言えば、ご当地コンビニの「セイコーマート」で”手袋”を買った。北の地に向かうのに甘い防寒で行ったのもどうかと思うが、何しろ寒くて、手を外に出していられないのだ。

 稚内の街について、まずは最北端の駅に向かう。

 「稚内駅」は現在、日本最北端の駅。この駅より北に、鉄道の駅は存在しない。

 平成23年、改修された駅舎は、映画館なども入った複合施設になっている。

 歴史を遡ってみると、大正11年、天塩線、現在の宗谷本線の終着駅として開業した稚内駅は、現在の、稚内から出発して一つ目の「南稚内駅」の場所にあった。確かに稚内市の中心街には、現在でも稚内駅より南稚内駅の方が近い。にもかかわらず、駅が移動したのは、この駅が、この街が、さらに北へと続く旅路の通過点だったからだ。

 稚内は北への玄関口だ。大正12年、当時日本領であった樺太と稚内を結ぶ、「稚泊連絡船」が開設された。稚内は樺太へと続く重要な交通の拠点となった。最盛期、樺太には40万人の人が住んでおり、稚内は、交易の重要な拠点として多くの人が稚内を訪れるようになったのだ。

 大正12年、開通したばかりの稚泊連絡船に、詩人・宮沢賢治が乗っていた。賢治は樺太にある王子製紙に勤務する先輩を訪ねる旅の途中であったが、この旅は、その前年、妹とし子の死によって負った、心の傷を癒す旅でもあった。その旅の心象は『春と修羅』に記されているが、賢治が稚内駅に到着したのは大正12年8月2日21時14分着の宗谷線急行であった。

 その2時間後には、稚内港から稚泊連絡船「対馬丸」に乗船している。稚内滞在時間はわずか2時間だが、なかなかタイトなスケジュールではなかったか。

 と、いうのは当時の稚内駅(現・南稚内駅)から、連絡船の出る港までは2Kmほどと、歩くには少し距離があった。この距離を、荷物を持ってひたすら歩いたのだ。

 重たい荷物をもって2kmを歩いたのは賢治だけではない。多くの旅人の負担になったことだろう。そこで昭和3年12月、宗谷線は今の位置まで稚内駅を延伸した。開業当時は「稚内港駅」(わっかないみなとえき)として開業された。その後、鉄道はさらに850m北へ伸びる。連絡線のすぐ近くまで線路は伸びて昭和13年10月「稚内桟橋駅」が開業した。

(写真1枚目)稚内駅。向かって左側に駅機能が。右側1階はお土産物屋、バス待合室、2階に映画館など(平成30年12月)

(写真2枚目)稚内駅2階にある映画館。”日本最北”の映画館である(平成30年12月)

(写真3枚目)今でも稚内は北へと続く港町。標識にはロシア語の表記を見られる(平成30年12月)

※次回は令和元年5月19日(日)に更新します。 ※平成31年1月分の鉄道輸送統計調査における旅客営業キロの全国合計は27,787.2Km

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