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執筆者の写真那住行政書士事務所

【鉄道ブログ】27,000Kmの旅日記003/最北の鉄道・宗谷本線編(3)


鉄道ブログも再開。

週末は、法務以外のお話も少し書いて行ききます。前回までは こちら から ………

 冬の稚内は人がいない。本当に人がいない。夜、駅近くの居酒屋に入った。夜7時ぐらいのことである。1時間ぐらい滞在していたのだが、その間、客は私一人しかいなかった。

「お客さん”こんな時期”に仕事ですか? 観光ですか?」と、店主。「一度、稚内にきてみたくて来たんですが……、この時期どこかお勧めのところありますか?」と、私。

 店主「ない。」……

「もっと気候のいい時に来てくれれば。宗谷岬も寒いだけだし。水族館とかもどこもやってないし。夏に来てくれるとね、花は綺麗だし、いろいろ見てもらうところもあるんですが……」

 地元の人が言うのであるから間違いない。朝がきて翌日、稚内をうろうろしてみたのだが、本当に何もないし、どこもなにもやっていないのだ。

 でも、それが何だと言うのだ。観光用に作られた景色より、自然のままの風景の方が美しいこともある。次項以降の記載となるが、稚内駅から鉄道が走りだし、私は10分もせずに思わず絶句してしまったのだ。が、鉄道に乗る前に少し、稚内駅・稚内市を散策したことから記して行こう。

 現在の稚内駅は平成23年に回収された「4代目」の駅舎である。改修前までは1面2線のホームだったが、現在は2番線が廃止となっており、1番線のみ単線のホームだ。70年代ごろまでは貨物用ホームがあり、また戦前は、樺太へと続く稚泊連絡船の乗降のため、850m北の桟橋まで線路が伸び「稚内桟橋駅」が駅があった。

 稚内駅からさらに線路が伸びていた面影は、現在でも稚内駅周辺を散策するとみることが出来る。稚内駅の外には、当時をしのばせるように、線路が伸び「最北端」を示すモニュメントが設置されている。  そして駅からさらに歩き、稚内港の桟橋まで向かうと、その面影はさらに強く残っている。

 鉄道から降り、船に乗る人々を、極北の風雪から守ったのが「北防波堤ドーム」だ。当時、北海道庁の技師であった土谷実による設計で、まるでギリシャの神殿を思わせる独特の柱列は圧巻だ。当時の人々はここを通り船に乗ったという。

 ホームのあった場所は、このドームの前であり、現在ではそこに、当時走っていたC55の車輪がモニュメントとして展示されている。

 太平洋戦争の結果によって、樺太における日本の施政権が消滅したことにより、稚泊連絡船はその役割を終えた。同時に「稚内桟橋駅」の役目も終わり、最北の駅は「稚内駅」となった。  その後多くの人の努力があり、現在は夏季のみ、稚内からサハリンまでの船が出ている。いつかその船に乗ってみたいなと。訪れた日には海上保安庁の船が1隻停泊していた。

(写真1枚目)C55の車輪で作られたモニュメント(平成30年12月)

(写真2枚目)寒い日でもまずは、ビール。もつ煮もおいしい(平成30年12月)

(写真3枚目)日本最北端の地を示す、稚内駅のモニュメント(平成30年12月)

(写真4枚目)北防波堤ドーム。ここに「稚内桟橋駅」があり稚泊連絡船との乗り継ぎ駅となっていた。(平成30年12月)

※次回は令和元年10月12日(土)に更新します。 ※平成31年1月分の鉄道輸送統計調査における旅客営業キロの全国合計は27,787.2Km

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